マルタ留学とフェルトム(Feltom)

フェルトムとは、Federation of English Language Teaching Organisations Malta という長い名前のアソシエーションの略称です。簡単に言えば、マルタの語学学校が集まった団体です。似たようなものに、アイルランドのMEIがあります。
フェルトム公式サイト(英語)
あまり細かい議論をしても仕方ないし、突っ込めば突っ込むほど反論も出てきそうなテーマなので、なるべく簡単に書きます。フェルトム加盟校は安心とか、フェルトムに入っていない学校、入れない学校は質が低いとか、トラブルがあっても助けてもらう機関がないとか、まあ、色々なことが言われます。それらについて、長年マルタ留学を扱い、現場を見てきた当社の見解としては、あまり気にしなくても大丈夫だと思います。
フェルトムに加盟している学校と雑談していると、中には、エージェントはフェルトムに入っていない学校に学生を送らない方がいい、とまで言うような人がいます。他方、フェルトムに入っていない学校に、何故かと聞くと、回答は色々ですが、「(会費を払うだけの)メリットがない」「狭いマルタの中で認可されても大したことがない、うちはもっと国際的に高い水準の認可を得ている」「単なる寄り合いである」「メンバー校同士の人間関係の問題」などなど、実はこちらの方が色々な裏話が聞けて面白いです。
マルタで90日を超えて長期滞在する学生は、ヴァレッタの移民局で滞在手続きが必要ですが、フェルトム加盟校の学生だけは、フェルトム加盟校限定の出先事務所で迅速にその手続きが受けられる、という話があります。しかしこれも、フェルトムに加盟していない学校に言わせると、大半の学校が加盟しているし、語学学生以外でこの手続きをする人は少ないので、実際はヴァレッタの本局の方が空いていて迅速なぐらいだ、ということなのです。
そもそもフェルトムに加盟するのは難しいのか、フェルトムに加盟していない学校はモグリなのか、というあたりから説明しますと、マルタの場合、一定要件を備えた語学学校は、政府のライセンスを得ていれば、営業をすることができます。ここで基本の審査はあります。これは、今のアイルランドでの、ILEPに似ており、例えば英国ブリティッシュ・カウンシルの認可の審査に比べれば、難しくありません。当社がマルタ留学を開始した20年ぐらい前は、ライセンスを得ただけの粗悪な学校も目立ったマルタですが、今ほどネットで悪評があっという間に広まることもなかったし、当時はそもそもが、ヨーロッパ人の短期ホリデー留学がメインの留学先だったから、その程度で何とかなっていたのでしょう。その頃と比べれば、今は、フェルトム加盟校であろうとなかろうと、マルタの語学学校の質は、全体的に色々な点で随分向上したとは思います。
そんな風にどうでも良いのなら、何故今さらニチアイのサイトにフェルトムマークを追加したのか、と言えば、まあ時々こだわる人がいますし、シンプルなら情報は多い方がいいのではないか、そして、アイルランド留学のページにも、少し前にILEPを入れたので、それとのバランスからも、入れてみよう、となったわけです。
フェルトム役員の方ともお会いして話をしたことはあります。しっかりした見識をお持ちで、フェルトム加盟校の品質や評判の向上に向けて、常に努力している姿勢は伝わってきて、好感を持ちました。しかも彼は、フェルトム加盟校以外に学生を送るな、みたいなことは一切言わなかったので、これもむしろ好感が持てました。
何よりフェルトムは、組織を挙げてマルタを世界中にプロモーションしてきて、その成果をきちんと出している団体です。フェルトムのワークショップというのを毎年マルタで開いて世界中からエージェントを招待していますし、フェルトム加盟校でツアーを組んで海外にマーケティングトリップに行って、留学先としてのマルタを熱心に売り込んでいます。それはかなり成功していると思います。

今回、冬の閑散期の出張で、10校ばかり駆け足で回りましたが、一昔前、2月のマルタの学校は、どこも学生が少なく、まったりのんびりしていたのですが、今は冬でも大勢の学生で溢れている所が多く、マルタが夏の短期留学だけの場所から完全に脱していることを実感する出張でもありました。そしてこの通り、行くたびに加熱している建築ラッシュ。クレーンだらけで絵葉書写真が撮れないほどです。これもフェルトムの努力の賜物かもしれませんね。
2001年12月のマルタ留学事情視察回想
今日、ウェブでちょっと検索すれば、日本語で様々なマルタ留学情報が溢れています。しかしその昔、全ての企業・団体・個人を含め、日本語でのマルタ留学の総合的・本格的な情報を、一番最初にインターネット発信したのは、間違いなくニチアイです。公開は2002年初頭だったと思います。(ついでに言うと、アイルランド留学もウェブでの総合情報公開はニチアイが最初です。当時はまだ紙パンフレットが主流で、ウェブのない学校やエージェントも結構ありましたから)
総合的・本格的という意味は、個人の旅行サイトとか、あるいは一部の留学エージェントのサイトでも、ちょっとついで程度に触れているものは、多少ありました。しかし、今のニチアイのマルタ留学サイトの原形である、マルタ各地の多くの語学学校を紹介し、その他の情報を一通り網羅するようなサイトは、全くありませんでした。
以来ほぼ18年、マルタも変わったし、それ以上にマルタ留学が日本で当たり前に広がり、良いこと悪いこと、色々ありますが、事実は事実として受け止め、ここらで18年前を振り返ってみたいと思います。
ニチアイはその当時から、12月上旬に、年末ギフトという大行事をかかえており、しかもあの頃は今より数量がずっと多く(というのもダブリンの日本人駐在員が多く、景気も良かった)、大変でした。その大忙しが一段落した、12月15日、スタッフ2名、夕方の便でマルタへ飛びました。マルタ空港着は、日付が変わった午前1時25分。今はなきバーリントン・アカデミーの校長が空港まで迎えに来てくれて、スタッフ2名、別々のホストファミリーに送ってくれました。はい、マルタ出張でホストファミリーに泊まったのはあれが最初で最後ですが、初めてだし、経験という意味でも、また2名×1週間のホテル代は、どうなるかわからないマルタビジネスの先行投資としてはちょっと負担だったので、学校にホストファミリー手配をお願いしたのです。もっとも当時の冬のマルタはホテルも安かったのですが、まだ今のようにホテル比較サイトもない時代で、そこらもあまりわかりませんでした。現地に詳しい語学学校にお願いすれば、ホテルでも安く泊まれたかもしれませんが、せっかくなのでファミリー手配をしてもらったわけです。
12月16日は日曜だったので、一日マルタを回ってどんな所か雰囲気をつかみ、学校訪問は17日の月曜からスタートしました。以下、載せた写真は全て12月16日撮影のものです。
最初の写真は、ホームステイをしたペンブローク。今もセントジュリアンズ地区の学校が多数のホストファミリーをかかえている、高級住宅地です。冬のアイルランドから行けば、やはり温暖で、青空が広がり、何とも別天地。このあたりは今も大きくは変わっていませんが、今より素朴で長閑でした。
セントジュリアンズは、当時から南国リゾートのナイトスポットではありましたが、今より鄙びていたというか、言い方は何ですが、途上国リゾートっぽかったです。それでも、少し前にあのベイストリートショッピングセンターがオープンして(それ以前はまともな日用品の店は無かったらしい)、徐々に変わりつつありました。左下の写真はパーチャヴィル手前、スピノラ湾との間あたり、今もちょっとゴチャゴチャ感の残る場所です。


そして右上が、名物のマルタバス。今と違い、冷房もなく、バス停に時刻表一つなく、排気ガスを撒き散らしながらも元気に走っていました。運賃がすごく安かったです。このバス自体が観光資源でもあり、マニアも結構いたみたいです。というか、クラシックバスマニアの羨望の的だったとか・・・
右がスピノラ湾の一番奥深いあたり、多分、マルタへ行く人の多くが一度ならず通っている場所だと思います。こうして見ると、お店の雰囲気が今より田舎っぽいです。このあたり、今はだいぶおしゃれになってしまった感じがありますから。
夕方、ヴァレッタにも行ってみました。まだイージースクールもなかったので、ヴァレッタは語学学校訪問はしなかったというか、したくてもできませんでした。
ヴァレッタの中央を貫く目抜き通り、リパブリックストリートは、クリスマスの飾りつけが華やかで、いい雰囲気でしたが、一歩横へ入れば古びた静かな住宅地。ここは全体が世界遺産指定地域なので、今もあまり変わってはいないといいますか、変えられないわけなのですが、それでも実は、ヴァレッタ旧市街も部分的には色々な所がかなり変化しているのです。
そして、通貨がまだマルタリラだったこと、そのためマルタの語学学校への支払いが今と比べると大変だったこと、その他、色々なことを思い出します。日本人留学生は、というと、全然いないわけではなかったです。しかし、全くいない学校が結構ありました。何年もやってるけど一人も来たことがない、なんて学校もあり、そういう学校を発掘する楽しみもありました。もしかするとここが当時と今のマルタ留学事情で一番変わったところかもしれませんが、当時のマルタはまさに、近場のヨーロッパ人がリゾートホリデーを兼ねて1~2週間の滞在をしながら英語も勉強する場所、だったのです。4週間滞在するという日本人留学生が、ヨーロッパ人に「ここに4週間も居るの!!?」と心底から驚愕された、そんな話を聞く時代だったのです。ついでに、当時も在住日本人は多少いましたし、現地企業で働く人もいたようですが、語学学校の日本人スタッフ、なんてのは、想像すらできなかったです。
EU加盟前、ましてユーロも導入されていなかった頃のマルタは、独自の経済圏でのんびり長閑に暮らせた国で、全般的には西欧より物価も生活費も安かったです。しかしそのマルタにも、いやおう無しに国際化の波が押し寄せ、EUに組み込まれたことで、物価や人件費や家賃が上昇し、まったりと英語を教えていた語学学校も、必死で営業して学生を増やしてやっていかないといけなくなってしまったのかな、とは感じます。ですが、それは同時に発展でもあり、商機でもあります。商売上手な語学学校はどんどん大きくなり、マルタから海外へ進出するぐらいの勢いが出てきました。この傾向は、EU加盟、ユーロ導入という段階を経るごとに、顕著になったように思います。
そんな昔のマルタを知るヨーロッパの老舗エージェントさんの中には、昔は良かったねえ、という声が結構あるそうです。実は当社もちょっとそう思っています。ですがプラスに捉えれば、これはアイルランドも一緒ですが、普通の国になった分、海外初心者にもハードルが低くなり、居心地も良くなったと思います。例えば日本食に困らなくなったとか、シャワーの出が良くなったとか、そういった末梢的ながらあなどれない大事な点では、18年前とは比べ物になりません。
なお、この時お世話になった、バーリントン・アカデミーは、経営者がこの上ない好人物ではありましたが、商売はあまり上手ではなかったのでしょうか、2007年に学校は閉鎖されてしまいました。そのバーリントン・アカデミーの体験談は、多分、現在ネット上で見つかるマルタ留学最古の体験談の一つではないでしょうか。今もサイトに残してありますが、この方が留学したのは当社のこの視察出張の1年前です。そのカラクリですが、前年、2000年9月にロンドンのエージェント・ワークショップ(今と比較にならない小規模)に参加したところ、マルタから唯一、参加していた学校が、バーリントンだったのです。そこで出会って面談した好人物の校長が、初めて出会うマルタ人でしたから、マルタ人というのはみんなこんな素晴らしくいい人なのだろうか、と思ってはしまいましたが・・・
とにかくロンドンから戻った後、アイルランド滞在中の留学生の方に「ニチアイでマルタ留学の取り扱いをを開始します、どなたか今のアイルランドの学校が終わった後で実験台で行ってみませんか」と紹介したところ、興味を持って下さり、実際にアイルランドからマルタへと飛んだのが、この体験談の方だった、というわけでした。体験談はいただけませんでしたが、当社社員の出張視察の前に、他にも2名ぐらい、手配してお送りしたと記憶しています。いずれも、情報がほとんどないけれど、だからこそ面白そうだ、という、多少の冒険心をお持ちの方々でした。
総合的・本格的という意味は、個人の旅行サイトとか、あるいは一部の留学エージェントのサイトでも、ちょっとついで程度に触れているものは、多少ありました。しかし、今のニチアイのマルタ留学サイトの原形である、マルタ各地の多くの語学学校を紹介し、その他の情報を一通り網羅するようなサイトは、全くありませんでした。
以来ほぼ18年、マルタも変わったし、それ以上にマルタ留学が日本で当たり前に広がり、良いこと悪いこと、色々ありますが、事実は事実として受け止め、ここらで18年前を振り返ってみたいと思います。
ニチアイはその当時から、12月上旬に、年末ギフトという大行事をかかえており、しかもあの頃は今より数量がずっと多く(というのもダブリンの日本人駐在員が多く、景気も良かった)、大変でした。その大忙しが一段落した、12月15日、スタッフ2名、夕方の便でマルタへ飛びました。マルタ空港着は、日付が変わった午前1時25分。今はなきバーリントン・アカデミーの校長が空港まで迎えに来てくれて、スタッフ2名、別々のホストファミリーに送ってくれました。はい、マルタ出張でホストファミリーに泊まったのはあれが最初で最後ですが、初めてだし、経験という意味でも、また2名×1週間のホテル代は、どうなるかわからないマルタビジネスの先行投資としてはちょっと負担だったので、学校にホストファミリー手配をお願いしたのです。もっとも当時の冬のマルタはホテルも安かったのですが、まだ今のようにホテル比較サイトもない時代で、そこらもあまりわかりませんでした。現地に詳しい語学学校にお願いすれば、ホテルでも安く泊まれたかもしれませんが、せっかくなのでファミリー手配をしてもらったわけです。

最初の写真は、ホームステイをしたペンブローク。今もセントジュリアンズ地区の学校が多数のホストファミリーをかかえている、高級住宅地です。冬のアイルランドから行けば、やはり温暖で、青空が広がり、何とも別天地。このあたりは今も大きくは変わっていませんが、今より素朴で長閑でした。
セントジュリアンズは、当時から南国リゾートのナイトスポットではありましたが、今より鄙びていたというか、言い方は何ですが、途上国リゾートっぽかったです。それでも、少し前にあのベイストリートショッピングセンターがオープンして(それ以前はまともな日用品の店は無かったらしい)、徐々に変わりつつありました。左下の写真はパーチャヴィル手前、スピノラ湾との間あたり、今もちょっとゴチャゴチャ感の残る場所です。


そして右上が、名物のマルタバス。今と違い、冷房もなく、バス停に時刻表一つなく、排気ガスを撒き散らしながらも元気に走っていました。運賃がすごく安かったです。このバス自体が観光資源でもあり、マニアも結構いたみたいです。というか、クラシックバスマニアの羨望の的だったとか・・・

夕方、ヴァレッタにも行ってみました。まだイージースクールもなかったので、ヴァレッタは語学学校訪問はしなかったというか、したくてもできませんでした。

そして、通貨がまだマルタリラだったこと、そのためマルタの語学学校への支払いが今と比べると大変だったこと、その他、色々なことを思い出します。日本人留学生は、というと、全然いないわけではなかったです。しかし、全くいない学校が結構ありました。何年もやってるけど一人も来たことがない、なんて学校もあり、そういう学校を発掘する楽しみもありました。もしかするとここが当時と今のマルタ留学事情で一番変わったところかもしれませんが、当時のマルタはまさに、近場のヨーロッパ人がリゾートホリデーを兼ねて1~2週間の滞在をしながら英語も勉強する場所、だったのです。4週間滞在するという日本人留学生が、ヨーロッパ人に「ここに4週間も居るの!!?」と心底から驚愕された、そんな話を聞く時代だったのです。ついでに、当時も在住日本人は多少いましたし、現地企業で働く人もいたようですが、語学学校の日本人スタッフ、なんてのは、想像すらできなかったです。

そんな昔のマルタを知るヨーロッパの老舗エージェントさんの中には、昔は良かったねえ、という声が結構あるそうです。実は当社もちょっとそう思っています。ですがプラスに捉えれば、これはアイルランドも一緒ですが、普通の国になった分、海外初心者にもハードルが低くなり、居心地も良くなったと思います。例えば日本食に困らなくなったとか、シャワーの出が良くなったとか、そういった末梢的ながらあなどれない大事な点では、18年前とは比べ物になりません。
なお、この時お世話になった、バーリントン・アカデミーは、経営者がこの上ない好人物ではありましたが、商売はあまり上手ではなかったのでしょうか、2007年に学校は閉鎖されてしまいました。そのバーリントン・アカデミーの体験談は、多分、現在ネット上で見つかるマルタ留学最古の体験談の一つではないでしょうか。今もサイトに残してありますが、この方が留学したのは当社のこの視察出張の1年前です。そのカラクリですが、前年、2000年9月にロンドンのエージェント・ワークショップ(今と比較にならない小規模)に参加したところ、マルタから唯一、参加していた学校が、バーリントンだったのです。そこで出会って面談した好人物の校長が、初めて出会うマルタ人でしたから、マルタ人というのはみんなこんな素晴らしくいい人なのだろうか、と思ってはしまいましたが・・・
とにかくロンドンから戻った後、アイルランド滞在中の留学生の方に「ニチアイでマルタ留学の取り扱いをを開始します、どなたか今のアイルランドの学校が終わった後で実験台で行ってみませんか」と紹介したところ、興味を持って下さり、実際にアイルランドからマルタへと飛んだのが、この体験談の方だった、というわけでした。体験談はいただけませんでしたが、当社社員の出張視察の前に、他にも2名ぐらい、手配してお送りしたと記憶しています。いずれも、情報がほとんどないけれど、だからこそ面白そうだ、という、多少の冒険心をお持ちの方々でした。